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186件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

1972-02-29 第68回国会 衆議院 予算委員会 第6号

、麦価、麦の値段、これで対立をいたしました内田信也農林大臣、あるいは吉田総理懲罰委にかけられるので、これに同調をしたというのでやめさせられた廣川弘禅農林大臣、あるいは国防会議構成法を提案をしたけれども、それが国会審議未了になったというので直ちに辞表を出した杉原荒太防衛庁長官、あるいは吉田総理の最後には、吉田総理に退陣を促して、吉田総理に断わられるや直ちに辞任をし、同時に党には離党届けを出した安藤正純代議士等

西宮弘

1972-02-29 第68回国会 衆議院 予算委員会 第6号

これだけの大臣がおられて、私はただ一人の安藤正純はいないのか、そういうことを考えると、まことに感慨無量な気がするわけでございます。  佐藤総理がただいまいみじくも言われましたように、問題はいつやめるか、いつ責任をとるか、そういうことではないのかと言われましたので、私は、実は私の言おうとしたことを先取りをされたわけです。私が伺いたいのもその点であります。

西宮弘

1961-02-23 第38回国会 衆議院 決算委員会 第7号

杠政府委員 それは会長重光葵さん、副会長は高碕達之助さん、委員は一萬田尚登さん、同じく委員安藤正純さん、同じく委員として石橋湛山さん、同じく委員として石川一郎さん、同じく委員として茅誠司さん、現在東大の総長をしておられます。同じく委員として藤岡由夫博士ということに相なっております。

杠文吉

1960-04-07 第34回国会 衆議院 本会議 第21号

終戦直後、昭和二十年の秋、鳩山君が安藤正純君、三木武吉等同志とともに日本自由党を結成されるや、君は、これに欣然参加し、翌二十一年四月の総選挙で本院に復帰されました。同年五月、第一次吉田内閣成立の際には、君は嘱望されて内閣書記官長となり、また昭和二十三年・二十四年の第二次及び第三次吉田内閣には、副総理として入閣して厚生大臣に就任されました。  

杉山元治郎

1957-05-13 第26回国会 衆議院 内閣委員会 第39号

受田委員 文部参事官斎藤さんがおいでになっておられるのですが、あなたは前に安藤正純文部大臣のもとに仕えられたことがございますね。安藤さんはなかなか気骨のある文部大臣であったと私は思うのですが、安藤さんが、紀元節の復活ということには触れられないで、こういうことを言われたことがあるわけです。

受田新吉

1957-04-25 第26回国会 衆議院 内閣委員会 第35号

鳩山さんが自由党を組織したときに、安藤正純君が初代の政務調査会長で、今度日本憲法を作らなければならぬというので浅井君を憲法調査会長にした。私はその下に会員になっておりました。安藤君がその後追放になりまして、マッカーサー憲法の試案が出てから私がかわりましたが、浅井君はりっぱな人で、英国憲法についてはことに造詣が深くて、鳩山さんは非常に信頼しておった。

北昤吉

1956-04-03 第24回国会 衆議院 文教委員会 第24号

われわれは大達さんをすでに知っておるし、安藤正純氏をすでに知っておるし、松村さんはややおとなしかったのですが、今度あなたがまたさらにその上をうんと出てこられたので、われわれは驚いておるのでありますが、それであなたが認定されるのだから、その措置要求権たるものは強いものでしょう。それを伺います。

高津正道

1956-02-24 第24回国会 衆議院 議院運営委員会 第15号

この予備金支出の内訳は、二十九年度今村忠助君、河原田稼吉君、三十年度小畑虎之助君、細野三千雄君、安藤正純君、杉村沖治郎君、このほかに、理事会では落しましたが、三十年度に、外国旅費として、インドネシア国のバンドンで行われたアジア・アフリカ会議に出張いたしました外国旅費が含まれております。以上の件でございますが、本日の本会議庶務小委員長報告を願いたいと思います。御了承を願います。   

園田直

1955-11-26 第23回国会 衆議院 文教委員会 第1号

藤本 捨助君    山口 好一君       河野  正君    野原  覺君       三宅 正一君  出席国務大臣         文 部 大 臣 清瀬 一郎君  委員外出席者         文部政務次官  竹尾  弌君         専  門  員 石井つとむ君     ————————————— 七月三十日  委員長井源君、荒舩清十郎君及び細迫兼光君辞  任につき、その補欠として安藤正純

会議録情報

1955-11-22 第23回国会 衆議院 本会議 第1号

原彪君 衆議院議員正三位勲一等安藤正純君は、去る十月十四日病をもって死去いたされました。ここに深く君の死をいたみ、諸君を代表して追悼の辞を申し述べたいと存じます。(拍手)  君は、明治九年、東京浅草の松葉町に生まれ、浅草に育たれました。長じて東洋大学を卒業し、さらに早稲田大学を卒業、また外国語学校にも学ばれたのであります。  

原彪

1955-11-22 第23回国会 衆議院 本会議 第1号

昭和三十年十一月二十二日     午前十時開議  第一 議席指定  第二 議院運営委員長選挙  第三 事務総長辞任の件  第四 会期の件  第五 内閣総理大臣指名     ━━━━━━━━━━━━━ ●本日の会議に付した案件  日程第一 議席指定  日程第二 議院運営委員長選挙  日程第三 事務総長辞任の件  事務総長選挙  日程第四 会期の件  日程第五 内閣総理大臣指名  原彪君の故議員安藤正純

会議録情報

1955-11-22 第23回国会 衆議院 本会議 第1号

議員安藤正純君は去る十月十四日逝去せられました。また、議員杉村沖治郎君は去る十月十七日逝去せられました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。両君に対する弔詞は、議長において、先例によりそれぞれ贈呈いたしました。  この際、弔意を表するため、原彪君及び阿左美廣治君よりそれぞれ発言を求められております。順次これを許します。原彪君。     〔原彪君登壇〕

益谷秀次

1955-11-22 第23回国会 衆議院 議院運営委員会 第1号

————————————— 本日の会議に付した案件  理事互選  議院運営委員長選挙の件  事務総長辞任の件  事務総長選挙の件  議院運営小委員の員数及び選任の件  小委員選任に関する件  会期の件  内閣総理大臣指名の件  故議員安藤正純君及び故議員杉村沖治郎君に対  する追悼演説の件  控室の件  虚礼等廃止の件  本日の本会議の議事に関する件     —————————————

会議録情報

1955-07-30 第22回国会 衆議院 内閣委員会 第50号

     都村新次郎君  委員外出席者         議     員 黒金 泰美君         参議院議員   千葉  信君         参議院議員   八木 幸吉君         専  門  員 安倍 三郎君     ————————————— 七月二十九日  委員上林山榮吉君、長井源君、松岡松平君、三  田村武夫中垣國男君及び福井順一辞任につ  き、その補欠として大村清一君、安藤正純

会議録情報

1955-07-29 第22回国会 衆議院 社会労働委員会 第53号

中馬辰猪紹介)(第二七〇八    号) 六四八 同(山本猛夫紹介)(第二七〇九号) 六四九 同(原捨思君紹介)(第二七一〇号) 六五〇 健康保険法等の一部改正に関する請願(    森山欽司紹介)(第二七一一号) 六五一 同(千葉三郎紹介)(第二七一二号) 六五二 同(眞鍋儀十君紹介)(第二七一三号) 六五三 強制医薬分業反対に関する請願(秋田大    助君紹介)(第二七二六号) 六五四 同(安藤正純紹介

会議録情報

1955-07-29 第22回国会 衆議院 文教委員会 第31号

大臣官房総務         課長)     田中  彰君         文部事務官         (初等中等教育         局長)     緒方 信一君         文部事務官         (大学学術局         長)      稻田 清助君  委員外出席者         専  門  員 石井  勗君     ――――――――――――― 七月二十九日  委員島上善五郎君及び安藤正純辞任

会議録情報

1955-07-27 第22回国会 衆議院 本会議 第48号

拍手)     —————————————  本案を委員長報告の通り決するを可とする議員の氏名    阿左美廣治君  赤城 宗徳君    赤澤 正道君  秋田 大助君    有田 喜一君  有馬 英治君    安藤  覺君  安藤 正純君    五十嵐吉藏君  井出一太郎君    池田 清志君  池田正之輔君    石坂  繁君  石田 博英君    一萬田尚登君  稻葉  修君    今井  耕君

益谷秀次

1955-07-19 第22回国会 衆議院 法務委員会 第39号

吉原をあそこに移転した、あるいは再建された何百年かの祝いがあって、そのときに、お名前を出してはまことに悪いかもしれませんが、前の文部大臣安藤正純氏、それから私がこの中でも特に尊敬申し上げてりっぱな方だと考えております船田中先生、そういう方が祝辞をお述べになっている。その中に、この制度——公娼制度ですよ。

神近市子